こっこ

反社会組織

想像力が働きすぎた世界はあまりにも残酷だ。

想像力とは何か。

 

そこにないものを見る能力と言えるかもしれない。

 

私は常に多くの不安と恐怖を抱えているが、どれも実際に今自分に苦痛をもたらしているわけではない。

 

存在しないものを想像し、恐れているのだ。

 

 

子供の頃から私にはこの傾向があった。

 

 

神経質であり、人の親が作った弁当が食べられなかった。

 

人の親が作った弁当は、その家庭の生活や趣向が現れるし、感じやすい。

 

卵焼きに砂糖が入っていたり、ソーセージをタコの形に切っていたりすると、特に無理だった。

 

ソーセージを食べる前にそれを切った包丁のことや、まな板のことや、キッチンの様子までもが浮かんできてしまい、食欲が失せるのだ。

 

好きな人ならまだしも、よく知らない人の家の生活が凝縮されたような弁当を食べることは私にとって殆ど恐怖だった。

 

 

人の家に泊まるのも無理だった。

 

部屋に置かれているものや、置く位置や、匂いや、そこで流れた年月が気になってすごく疲れる。

 

物にも、年月が経つと風合いが出てくるように、部屋という空間にもそれまでの時間が流れた形跡がある。

 

その情報は普通必要ないのかもしれないが、想像力は勝手にそれを読み取り出す。

 

洗剤の匂い、ペットの匂い、本の匂い、色んなものが大量の情報をもたらす。

 

だから慣れていない場所はものすごく疲れるし、恐怖でしかない。

 

 

この想像力が全ての生活に働くのは殆ど悲劇だ。

 

引っ越しをせず、生活のルーティーンを決め、慣れた場所を好む。

 

外に出る時に、サングラスとイヤホンは必需品だ。

電車なんて+マスクがあってもしんどい。

 

 

人間関係もそうだ。

 

表情、仕草、雰囲気から大量の情報があるし、言語のやり取りなんて、相手のバックグラウンドを想像し、伝わりやすいように調整する。

 

例えばお年寄りと会話する時は、ゆっくり、大きな声で、ヤバいなどの言葉を使わず、共有できる話題を考えなければならない。

 

人との関わりは楽しさよりも疲労の方が大きい。

 

 

この世界はあまりにも刺激が強すぎる。